三瓶山山頂での写真

私の市大20周年(12)情報科学研究科准教授 藤原久志


開学前後の熱気と喧騒の中で

平成6年4月の開学の際に情報科学部助手として着任してから、あっという間に20年が過ぎました。開学当時に生まれた方々とも、広島の美味い肴と一緒にお酒を飲めるかと思うと、軽いめまいを覚えます。お酒ということで少し脱線すると、今はやりの「日本エレキテル連合」のコントを見ると、前々回に田中輝雄先生が逸話を披露された荒井貞光先生を思い出します。荒井先生が人をお酒に誘うときの口癖は「ねぇ、いいじゃない」だったのです。生き方の枠が大きくて、とても楽しい先生でした。
さて、それはさておき、開学当時からの本学を知る私ならではの逸話として、表題に沿って話を進めてみましょう。

【いざ、入学試験!】
本学開学前年度にあたる平成5年度に、私は大阪大学大学院工学研究科応用物理学専攻の博士後期課程の学生でした。本学教授に着任予定の石渡孝先生(当時の所属は東京工業大学)の面接を経て、本学情報科学部助手への着任が内定していました。第一期生を選抜する入学試験当時には、そもそも大学自体がまだありませんから、当時まだ学生であった私を含め、さまざまな人たちが入学試験業務に関わることになりました。
私の手元には当時の入試関係の資料が残っています。それによると第一期生の入学試験は、「推薦入学(1月22日)」と「一般選抜(前期2月13日・後期3月6日)」があり、私は一般選抜(前後期とも)に試験監督として関わりました。ちなみに、前期試験における三学部の総募集人員260名に対して志願者数は6,313名で、志願倍率は実に24.3倍です。実は第一期生だけの特殊事情があり、本学の前後期試験日程が他の国公立大学のそれらと重なっておらず、本学と他の国公立大学との併願が可能だったのです。
さらに、ご参考までに「前期試験への協力依頼文」の一部を資料として提示します。その当時の広島市長であった平岡敬さんのお名前の横には、実は篆書体による「広島市長」公印があります(念のため隠しました)。この依頼文は、公文書(広企市第43号)として決裁印つきで保管されたはずです。しかし、当時大学院生だった私はそうした重みをきちんと理解しておらず、単なる依頼文として軽く読み流していました。さらに別の資料「前期試験広島大学会場事務分担」を見ると、試験業務に実に多くの市役所職員の方々が関わっていたことがわかります。「市立大学設立準備室」とこれが属する企画調整局は勿論のこと、経済局、都市整備局、建設局、下水道局など広島市役所の総力を結集して最初の試験業務を応援してくださっていたのですね。
私自身の試験業務への関わりとして、まず思い出すのは2月13日(日)の前期試験です。と申しますのも、前日の2月12日(土)は大変な雪で(“1994年2月12日の大雪”で検索してください)、新大阪駅新幹線ホームの電光掲示板は表示が消え(おそらく運行時刻を保証できないため)、「ちゃんと広島にたどり着けるだろうか?」ととても不安に思ったものです。また、3月6日(日)の後期試験では試験監督を大槻説乎先生(平成8年4月に情報科学部教授としてご着任)とご一緒し、休憩時間の合間に先生の師匠であった湯川秀樹先生や朝永振一郎先生の思い出話を楽しく拝聴しました。ノーベル賞受賞者は、いつの世も理系学生の憧れです。
こうしていろいろなことがありましたが、最初の入学試験は無事終了し、いよいよ開学を迎えます。
試験への協力依頼(抜粋)

【開学してからのお話】
開学初年度、情報科学部棟は実質無いに等しく、したがって情報科学部教員は芸術学部棟に間借りしていました。そういった感じで活動空間が限定されていたため、芸術学部の先生たちはもちろん国際学部の先生たちともすぐに親しくなれました。このことは、私の人生を豊かで幅広いものにするために本当に良かったと思います。それでは、開学当初の逸話を二つほど紹介しましょう。

宿泊研修
一つ目は、入学後のオリエンテーション(だったと思います)の話です。皆で現在の「国立三瓶青少年交流の家」で宿泊研修をしました。栃木、京都、大阪を経て広島に来た私にとって、まず三瓶山がいかなるものか、そして何故こんな遠くにまで全学で来るのかが良くわかりませんでした。また、夜に短髪のとある事務職員さん(お名前は敢えて伏せます・笑)が竹刀片手に見廻りをしていて、「まるで高校の体育教員みたいだなぁ」と思ったことを良く覚えています。宿泊と併せて皆で三瓶山に登山しました。そのとき山頂で撮った記念写真がタイトル写真です。情報機械システム工学科発足当時の学生さんと教員の懐かしい顔ぶれが揃っています。当日は写真でも良くわかるように快晴で、青く深く広がる日本海を眺めながらの登山は実に気持ちよく、三瓶山は納得の名山でした。しかし、改めて、何故みんなで三瓶に行ったのでしょう?

物品購入
開学当初に教員、事務職員の双方が共に一番大変な思いをしたのは「物品購入」でしょう。私自身も最初は本当にビックリしました。それまで、どっぷり実験系の学生をしていた私にとって「物品購入は入札が基本で、二万円を超える物品は基本的にすべて備品」という“市役所の常識”には、とても驚くと同時に大きな不満を抱いたものです。そして、いろいろな経験をした現在、「その“常識”は流石に大学の実情には合わないですね」と申せるのと同時に、“市役所の常識”にもきちんとした理由があるとも思っています。その「理由」とは、つまり人間は本質的に弱い部分、駄目な部分を持ち合わせているという奥深い諦観に基づく経験則です。
かくして、どちらにも譲れない理由があって、大いに揉めることになりました。その詳細はさておき、当時「メモリとバナナは似ているなぁ」とくだらないことを考えていました。つまり、「(小学生の遠足でおやつは一人300円までとして)先生、バナナはおやつに入りますか?」というお約束の質問と、「(二万円以上でも比較的早く古びてしまうので)メモリは消耗品になりますよね?」という問いかけが本質的に同じような気がしてならなかったのです。毎日のように、そこかしこで「いーじゃぁないのぅ」「ダメよぅ、ダメ、ダメッ」というやり取りがくりかえされる一方、「フォークリフト(芸術学部)」や「血統書つきのおたまじゃくし(情報科学部)」など、教員としては大真面目なのだけれども事務職員としては冗談としか思えない、多彩で手ごわい発注が次々と繰り出されて、当時の用度関係の事務職員さんは本当にご苦労されたことと拝察します。こう書いていて、改めて「悲劇と喜劇は紙一重」なんだなぁとしみじみそう思います。

【次の20年へ向けて】
さて、本稿もそろそろ締めに入りましょう。開学当初に話を絞ったので、あまり学生さんとの事は書けませんでした。でも、この20年間で学生さんとは、勿論いろいろと楽しいことが沢山ありました。その辺りは、11月1日(土)、2日(日)のホームカミングデーに是非いらっしゃって頂き、いろいろな思い出話を楽しく語り合いましょう。
開学当初に話題を限ると、必然的に事務職員さんとの逸話が多くなりました。彼ら彼女らは大学の重要な構成員であり貴重な戦力ですので、このような回があるのもまた一興でしょう。そうして、あらためて「(前期または後期試験)広島大学会場事務分担」を見ると、この試験の後に広島市立大学で共に仕事をすることになる事務職員さんのお名前が次々と見つかります。その中には、現在本学で働いている方たちのお名前もあります。広島市立大学設立に向けて奔走した市役所職員の方々の努力と汗に思いを馳せると共に、次の20年をさらに素晴らしいものにするために教員としてよりいっそう頑張って行きたいと思います。